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ごぞんじ Google には、驚異のイメージ検索があります。地理や歴史(に限らないが)を学ぶにあたって、往時とは量、質、臨場感とも比べものにならない図像がいくらでも入手できるではないか! なお、著作権不明の図像極めて多数ゆえ、ブロークン URL のみ表示しております。すべてを表示するには、以下にアクセス! ttp://www.ayutaya.com/home/knaka/shakaika2003.php?hidden=false 言うまでもありませんが、上記アドレスでは直リンクしないでください、ヤバイので。 以下、時系列には沿っていません、興味のおもむくままに、下ほど古いコンテンツ。 武蔵野台地(Fri Nov 28 2003)今回のはローカルネタね。 かれこれここ数年、住まいである下北沢から勤務地である渋谷まで自転車通勤を続けているわけですが、時に、疲れきったからだにはキツイな〜思える日もあります(おかげで下半身には肉つきましたが)。で、先の「台地の解体新書 ( ttp://www.kanto-geo.or.jp/kaitai/index.htm )」を見ていてふと思った。今使っている最短・最速ルート以外に、もっと高低差のない、軟弱ルートがあるのではないか、と。
すると、分かることがいくつかあります。まず、あたり前のことですが、河川は低い所を低きへ流れます。対して、用水、上水のたぐいは、高い所を尾根づたいに、平らに流れます。そんなわけで、多くが暗渠となってしまった、かつての河川や上水、用水のたぐいを調べれば、東京の山の手の全体像が見えてくるのではないかな、と思ったわけです。
以下、いささか作為的ではあるものの、多く川と上水・用水は交互に走っていることがわかります。これらの上水・用水はみな、玉川上水から、魚のホネのように分水しています。自然河川を静脈に見たてれば、上水・用水はいわば動脈――台地にくまなく水を行き渡らせる。そんな中でも、皇居にいたる尾根を走る玉川上水は、まさに大動脈。 柳瀬川 # 国立自然教育園。松平讃岐守頼重(高松藩主)下屋敷。合羽坂――河童坂から。 利根川東遷・荒川西遷(Mon Nov 24 2003)私の郷里は埼玉県伊奈町でして、その名の通り、伊奈備前守忠次公の居を構えた土地です。家は大宮台地の北東端にギリギリのったところ ( ttp://www.kanto-geo.or.jp/kaitai/map/area/19-I3frame.htm )に位置し、裏は一面のたんぼ、そのむこうには綾瀬川が流れていました。「綾瀬川」は「妖し川」、つまりは「さまよえる川」だったそうで、見沼の流れを含めて、それくらい荒川・利根川流域が低湿地だったということなのでしょう。フナ釣ってたあのチョロチョロの、日本でも一・二を争う汚染度のドブ川が、太古には荒川の一部であったというから、まあ落ちぶれたものである(おかげで平穏無事に住まうことができたわけですが。ありがとう > 関係者)。 でまあ、その伊奈氏が数代に渡ってなした前代未聞の大事業が、大ざっぱに言って、利根川の東遷と荒川の西遷だったわけです。甲斐武田家の戦後処理で仕入れてきた、農業土木テクノロジーだったらしい。
関東地方の地形・地質概要 ( ttp://www.hp1039.jishin.go.jp/danso/Saitama2B/3-1-1.htm ) 埼玉県の表層地質 ( ttp://www.pref.saitama.jp/A09/BJ00/tenken/point1.htm )
「暴れ川」たる坂東太郎・利根川。「荒ぶる川」荒川。 荒川と合流して大氾濫する利根川の水量を何とかしよう → 東隣の渡良瀬川〜江戸川と、それをまたいで(!)常陸川(銚子へ注ぐ、現利根川)に瀬替し、元の流れは廃川。江戸を、伊達氏と隔てる大外堀(!)でもある。また、東北東岸からの水運も増大 それでも足りずと、荒川の水流を何とかしよう → 大宮台地の北端が鴻巣あたりだから、そのちょい北・熊谷あたりで、南隣の吉野川・入間川に瀬替することで、今まで大宮台地の北東側(元荒川、綾瀬川)であったものを、南側(現荒川)を流した。 入間川を混ぜちゃったのだから、その分は下流、隅田川近辺に皺よせが行く。後に大正〜昭和初期、岩淵(赤羽岩淵の岩淵だ)で隅田川に堰を築き、荒川放水路を掘って(!)、そっちに流した。主には田畑だったようだが、それでも総工期 20 年、移転戸数 1300、用地買収面積 1098 町歩というから、だいたい 1100 ヘクタール――東京ドーム 240 個くらい。 と、書くのは簡単だが、すげえなあ、よくやったよ日本人。 利根川の歴史については「利根川上流河川事務所」、荒川の歴史については「ARA」(これ、すばらしい)。
台地の解体新書 ( ttp://www.kanto-geo.or.jp/kaitai/index.htm ) 地学になってきた。地学(一応理科)と地理・風土・風俗(一応社会科)は不可分だけどね。
ネファーティティ(ネフェルティティ、Nefertiti) Civil War
ソシュールとゆかいな仲間たち(Sat Jul 26 2003)
朝鮮動乱、朴正煕(Pak Jung-heui)、金大中事件、光州事件。
古代ローマの暦は現在の 3 月から始まる。September(7 番めの月), October(8 番めの月), November(9 番めの月), December(10 番めの月)はそのなごり。よって閏年の調整日は、最終月である 2 月に入る。ユリウス暦、グレゴリオ暦。 単位の基準は人であってほしい(Mon Jul 21 2003)以下の話、以前「逆説の日本史」にて読んだと記憶しています(図書館で借りたので手元にありませんが)。 「一合」は、平均的な日本人が一食で食う米の容積が基準になっている。俸禄の額や国家の生産力を表す「石高」の基準になる「一石」が「一合」の 1,000 倍になっているのは、陰暦の一年が 360 日なので、おおざっぱに「一人が一年で食う米の量、もしくは生産能力」を指すわけです。人は米のみにて生きるにあらずではありますが、「百万石」な加賀藩は、おおざっぱに百万人食わせるだけの国力をもっていたと言えましょう。そして、面積の単位である「一反」は、一石分の米を産する水田の面積を基準に定められています。一反 = 360 坪(太閤検地以降は 300 坪になったが)となっているのは、一坪が、人一人が一日で食う米を産する、という意味になります。 江戸時代の相場では、一人一日当たりの米消費量(米換算と言ったほうがいいかな)は 5 合と言われるようです。よって、一人扶持 = 一石と 7〜8 斗くらいになります(藩によって誤差あり)。 尺貫法の禁止なんてのは、グローバリゼーションには害が多いことの証左の一つでしかない、と。 日本刀の刀装具(Sun Jul 13 2003)後藤家を調べていたら、その作品群として「目貫」だの「小柄」だの多く出てくるのですが、何のことだか分かりません、ナサケナイ。調べてみる。
「小柄」でぐぐると、「こがら」な女の子がたくさん出てきて困るんですけど……。
手入れ、こことかこことか。「日本刀の歴史と研ぎの技」。 ざっくざく(Sun Jul 13 2003)
後藤家(後藤四郎兵衛家)は足利、豊臣、徳川に仕えることとなり、幕末にいたるまで繁栄をつづけ、光乗・顕乗などの名工を輩した。江戸時代には金座(大判座・分銅座)の元締めでもあり、大判小判には必ず後藤家の刻印や花押が入る。後藤祐乗(1440〜1512)――近侍から彫金師となり足利義政に仕え、後藤家の開祖となる。 アダム・スミス(Wed Jun 25 2003)「国富論(The Wealth of Nations)」は有名だ、そんなの常識タッタタラリラ(私、あの歌詞大キライです)。辞書的には、アダム・スミスはスコットランドの経済学者であり、古典経済学の紫蘇^h^h始祖である、と。
いきなり脱線してもうしわけないのですが、スコットランドでは、UK の中央銀行である Bank of England(イングランド銀行)が発行する紙幣の他に、The Royal Bank of Scotland(王立スコットランド銀行), Bank of Scotland(スコットランド銀行), Clydesdale Bank(クライズデール銀行)ら市中銀行(≠ 中央銀行。フツーに普通口座を持っている)三行が発行する紙幣を含めた計 4 種類の「英貨(Sterling)」が、何ら混乱をきたすことなく流通しているというから「???」です(お札に「東京三菱銀行券」とか書いてあったらどうよ? 「りそな銀行券」よりはいいが)。さらに、北アイルランド、マン島、チャネル諸島には、ほかにも紙幣発行銀行があるらしい……。その背景には、数百年間、たびたびの金融不安を乗り切ったスコットランドの銀行群の持つ信用力があり、いたずらに発行権を剥奪するのは好ましくない、という風潮があるからだそうです(対して、バタバタつぶしたイングランドでは、中央銀行だけが発行権を持つ)。ただし、後者三者は国際間取り引きのための通貨としては認められていないため、他国(日本国内含む)では多くの場合両替を拒否されますので、United Kingdom の中央銀行(日本の日本銀行の位置づけ)であるイングランド銀行発行のポンド紙幣を用意しましょう(なお、硬貨に関しては、イングランド銀行が独占しています)。とまあ以上のようなわけなのですが、さすがに、発券量のコントロールをできるのはイングランド銀行だけのようです(市中銀行が好き勝手に紙幣を発行できちゃったら、「当行のォォ、預金金利はァァア、世界一ィィィイイ!」とかなっちゃって、UK は大インフレじゃ)。 そう考えると、堅固でしっかりしたスコットランド経済という土壌が生んだのがアダム・スミスら、スコットランド人経済学者だったのかな、と思えなくもない(「神の見えざる手」な古典経済学とは相反する?)。 # ゴールドスミス、預金銀行、預金貸付銀行、信用創造(credit creation、何だこのイカサマは)、なぜ "credit" は「マネー」と同義になる? # http://www.findai.com/yogo/0016.htm 共和制 vs 民主制(Wed Jun 18 2003)「スターウォーズ・エピソード II」を見ました。劇中、「アミダラ議員」は "Senator Amidala" で、字幕では「元老院議員」でした。たしかレイアも元老院議員だったな。元老院(Senate)の主席である執政官(あるいは統領、Consul)に非常時大権を与えて独裁官(Dictator)にしたらそれっきりになっちゃった、という流れはローマの共和制→帝制の歴史をなぞっているように思えますが、ルーカス的には、911 以降の米国への警鐘なんだろうな。共和制は非常時の権力集中によって崩れるぞ、と("senate" はアメリカで言えば「上院」そのものだし)。
そこで、以前から何となく気になっていたこと――そもそも「元老院」とは何なのかと思って調べてみる。 「元老」というのは、中国の「詩経」に見られ、年齢・名望・官位の高い功臣を指します。日本でも、明治後、数人いたようです。少なくとも本来的な意味で言えば、普通選挙で選ばれて出てきたワカゾー平民のことではありません。で、「元老院」。そういった類の人々の傾向としては、一般論として、保守的であり、職業政治家であり、母体集団(氏族、血族、地縁、元職など)の既得権益維持を旨とする、と言っていいのではないでしょうか(言いすぎか?)。だからいいとか悪いとかではありません。多くの二院制をとる政体の「上院」の原型は彼らです。英国の「貴族院」などはまさにそうですし、日本の参議院にしたって、議員の被選挙権が満 30 歳と、衆議院のそれが 25 歳であるのに比べ高いのもその表れでしょう(もっと差をつけてもいいとは思うのだがね、年齢とか資格とかで)。傾向の違う二院をむかいあわせることでバランスをとろうという意図があったと思われ。 米国の二院制は少々趣が異なり、下院より上院("senate"――まさに「元老院」)がえらいです。なぜなんでしょうね? ローマの共和制を精神的に範としたか。せっかく自由を得ながらも、どこか貴族(というよりは、貴族性――「ノブリス・オブリージェ」とか言うんだっけ?)にあこがれるところがあったのか。 ところで、今までずっと、何度聞いても米国の共和党と民主党がどっちがどっちだか分からなくなるので困っていたのですが、「共和党」のかかげる「共和主義」が、今日一般的に言われるところの「共和主義(主権在民の普通選挙間接民主制、民主共和主義)」ではなくローマ共和制で言うところの「共和主義(君主がいなくて代表による合議制なもの)」に近いものであるならば、「民主党」はまさに「民主主義」をかかげているわけで、前者が富裕層を重視した政策をとり、後者がそれ以外(貧困層とまでは言わないまでも)重視であるということはうなずけます。普通選挙が当たり前の世の中に育ってしまったのでピンと来ませんでしたが、「共和制」の度合と「民主制」の度合は直行するもので、「共和制をとるが民主的でない(古代ローマ)」とか「共和制はとってないけど民主的(古代ギリシアの直接民主制なんかがこれか)」もありうるわけだ(共に低いと「専制君主制」になるし、共に高いと「民主共和制」になる?)。 # 元老院、長老、氏族、ローマの法、法って何だ。ローマの王。元老院、民会(兵員会)、執政官。元君、元旦。老練。カミルス(Camillus) ヒッタイトを滅ぼした、いわゆる「海の民」。沿岸海洋性武装混成難民? 出どころは? ギリシア? クレタ? アナトリア? あるいは雪ダルマ式にどこからともなく? あるいは、そもそもエジプトの一碑文からしてガセ? # ttp://www.dokidoki.ne.jp/home2/akira16/index2-10-1.html # ttp://academy.2ch.net/whis/kako/998/998929365.html ヨーロッパの木材(Wed Jun 18 2003)レバノン杉。フェニキア人? ギルガメッシュ叙事詩のフワワの森。エフェソスはかつては港町。 テツ(Wed Jun 18 2003)ハッティ(ヒッタイト)では、同重量の金よりも高価に取り引きされていたという記録があるが、これは秘密主義による価格つりあげのためであり、隕鉄を用いていたため高価であった、というのは俗説らしい。実際には、砂鉄を用いたタタラ、低温製鉄。「粉末冶金」て砂鉄製鉄のこと? 玉鋼。海綿鉄。 隕鉄による鉄器は、銅器よりも歴史が古い? ヒッタイトからエジプトに贈られた短剣は砂鉄製だった。すでに鋳鉄技術はあった? 脆そうだ。 鋳鉄を得ようとすると青銅よりも高温の炉が必要なので、それ系の冶金技術を前提に推測すると、銅器時代→青銅器時代→鉄器時代となる。砂鉄を用いて還元鉄を得るタタラ製鉄であれば、はるかに低温の炉で OK。鍛造。青銅器時代と並行、もしくは先行する鉄器時代もあり得る。それに、鉄器のほうがずっと錆びやすく、残りづらい。 銅の融点 1080 ℃前後、青銅の融点は 850 ℃前後――鋳造による量産。しかも硬い。 エジプト、ゲルゼー(Gerzean)文化期(3300〜3050 BC)の墳墓から隕鉄の祭器(小管玉)は出る。 鋳鉄は中国、5C BC くらい。熱風炉(高炉)で銑鉄をとりだす。炭素が多く、脆い。刀剣は、幅広肉厚とし、比較的短くすることで量産した。 対して日本のタタラ製鉄では、銑鉄の量産には向かないため、鋼塊を得て鍛錬するという手法を採用せざるを得ず。 銑鉄(溶解中)= 鋳鉄(固まり)。銑鉄を精錬して、鍛鉄 ⊃ 鋼鉄, 錬鉄。炭素量(硬度)に従い、鋳鉄 > 鋼鉄 > 錬鉄。 炭素分は、多くても少なくても「鉄」であり、鋼にはならない。焼き入れ、焼き戻し、焼き鈍し、焼き戻し……。 日本刀、錬鉄をはさみ鋼鉄をかぶせて刀身を形成。 カントの「自然地理学」。 陶器。素地に吸水性があり、透光性が無い焼き物で、原料は粘土。釉薬を掛けたり、焼き締めたりして水を通さないように作る。どちらもしないと、水を通す「土器」となる。 磁器:素地自体に吸水性が無く、わずかな透光性のある焼き物で施釉もする。材料は、陶石(鉄分を殆ど含まない石英系の粘土)に長石、カオリン等を混ぜて作った「磁土」。 ストーンウェア:粘土と、溶けやすい陶石が原料。素地は不透明で吸水性もない。釉薬は使用したりしなかったり。ドイツのケルンで始められ、十七世紀後半に英国に紹介され流行した。 アルミニウムは、金や銅のように、天然にそれだけの形で産することはない。また、イオン化傾向が高いため、鉄のようには、高熱と還元剤を用いて還元することもできない。ナポレオン三世は、大切な客にはアルミニウムのスプーンやフォークを出し、普通の客には金銀製のものを出したという(参考)。 ttp://mentai.2ch.net/whis/kako/993/993390982.html 「ヒッタイトのスレを荒すこいつの正体はだれなんだ?」「海の民」にワラタ。 ttp://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1009897856/ ttp://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1998/00492/contents/013.htm インド・ヨーロッパ語族、アナトリア語派。 銑鉄の精錬ができたとかどうとか……。何だか分からなくなってきた。 日本人ヒッタイト起源説(石川三四郎『古事記神話の新研究』(1921))。トンデモは昔からいるんだな。 東方攻略の拠点コンスタンチノープルの発動(Sun Jun 15 2003)後四世紀、例によって政敵を排し覇権をうちたてたコンスタンティヌス(Constantinus, Constantine)帝が、ギリシア時代の都市ビザンティウムの再建計画を発動させた。
で、東に目を転ずると、そこには、アケメネス朝ペルシアの後継をもって任じていたササン朝ペルシア(Sasanian Empire)が。
パルティア・ササン(Sun Jun 15 2003)パルティア(Parthia, Parthian (adj))朝ペルシアと、ササン(Sasan, Sasanian (adj))朝ペルシア。パルティアの内紛をつぶして立ったのがササン朝であり、共にアケメネス朝以来のペルシア人(イラン人)国家であることをアイデンティティとするので、一連のながれとして扱う。
(Sun Jun 15 2003)春秋という都市国家群の時代。 (Sun Jun 15 2003)ポンペイ、ローマ、インド、ベトナム、黄金、後漢、シルクロード。 (Sun Jun 15 2003)ガンダーラ、クシャナ、仏教、拝火教。東大寺、御水取り。 キルギスタン(Sun Jun 15 2003)ちょっと横道へ。トルキスタンとは、中央アジアの別名です。その名のとおりトルコ系の人々が多数派を占め、彼らはかつてシルクロードの交易を担っていました。あらっぽい分け方ですが、新疆ウイグル自治区を「東トルキスタン」、旧ソ連側のトルクメニスタン、カザフスタン、ウズベキスタン、キルギスタン、タジキスタンをひっくるめて「西トルキスタン」と呼びます。 追記(Tue Apr 20 2004): 後に歴代のトルコ帝国の中核を担ったトゥルク人たちの故地です。が、相対的に小数の民族が大帝国を運営するうち混血は進み宗教はイスラム化。外見的にも往時とは大きく異なります で、キルギスタン(Kirgiz, Kirgiztan, Khirgizistan, Kyrghyzstan ゆれる〜)こと、キルギス共和国なんですが……。
フェルガナ(Fergana)盆地、汗血馬。
これでは完全に山岳国家ではないですか! これといった資源もなく、経済が遅れていると聞きますが……どうしましょう? 追記(Tue Apr 20 2004): どういう経緯でこういう線引きになったのかは知りませんが、ソ連時代には、ちょっと農耕に適した平地があるとあっという間にモノカルチャーな大改造指示が飛んできてメチャメチャになるので、結果的に古俗を残すことになったわけで、かえってよかったのかも、とプラスに考えてみるテスト 関連リンク:
ウズベキスタンに朝鮮人(Sun Jun 15 2003)
日本からウズベキスタン(Uzbekistan)に行くには、成田 → 韓国の金浦空港 → 首都タシケントが便利だそうです。なぜに韓国に直行便かというと、スターリン時代、ソ連の沿海州に住んでいた多くの朝鮮人が、「スパイ予備軍」とみなされ、強制的に中央アジア、特にウズベキスタンに強制移住させられたそうです。そのため、当地に親類がいる、当地の朝鮮人相手に商売をする等の韓国人が多く、需要があるのです。 スターリンの被害妄想には、当時の日本の侵略政策も無縁ではないようです。何しろ当時、朝鮮半島は日本の領土として「併合」されていたのですから……。
そんなわけで、韓国、とくに大宇の投資が多いそうです。ウズ大宇自動車、ウズ大宇銀行、口の悪い人々は、大宇スタン(デーウスタン?)と呼ぶそうです。ウズ大宇自動車では、Nexia(セダン、4 気筒 1,500CC)、Tico(軽 5 ドア、3 気筒 800CC)、Damas(軽ワンボックス、3 気筒 800CC)の三車種を生産しています。
トルクメニスタン同様、ソ連時代のモノカルチャー経済に苦しめられています。ウズベキスタンに振られた産業は、綿花。以下は、たぶん '96 年ころの、世界の綿花生産量ランキング。
トップテンには、ウズベキスタン以外の CIS 国家は一つも出てきません。輸出量では、米国につぐ二位になります。
綿花以外の産業としては、金が出るそうです。 # トルクメン人は騎馬民族、ウズベク人は商人、カザフ人は詩人……。サマルカンド。カリモフ(Karimov)大統領。ここのイスラム教もテキトウ系らしい……。タシケント。大宇 関連リンク:
アヤトラ(Sun Jun 15 2003)アヤトラ(Ayatollah)――イスラム教シーア派の最高指導者の尊称です。決して、あややのトランクではありません。シーア派ですから、当然イランの指導者を兼ねるわけで、アヤトラ・ホメイニ氏やアヤトラ・ハメネイ氏が有名ですな。 アルメニア(Fri Jun 13 2003)
かつて存在したアルメニア王国は、ポンペイウスの遠征以来、ローマに朝貢する国になったといいます。コンスタンティヌス帝のキリスト教公認とほぼ同時にキリスト教化し、以来異教徒に対峙する最前線としてありつづけました(今だに!)。 まあそれをおいても。
ヒッタイトの継承者、とか言ってますが? 「ハイ」、「ハヤスタン」、聖書の「ヘテ人」。ヤペテの子孫ハイクは、バビロニアのニムロド(ニムルド)に服属することを拒み、アララトの地に移り住んだ。 # アルメニア商人はオスマン帝国時代はユダヤ商人以上に活躍。 # エルサレムには、アルメニア人地区があるらしい。 # 青年トルコ党、民族浄化。「東アルメニア」。 「ジョージア」? ああ、グルジアですか(Thu Jun 12 2003)遠い昔、神様が各民族に対して土地を割り振ることになったのですが、その当日、グルジア人の代表は、長旅で病におかされた旅人を迎えたために、神様のもとへ赴くことができませんでした。後日、男は神様を訪ね、経緯を説明しました。神様は事情を汲んでくれて、渋々、自分が住むつもりでいた土地をグルジア人に与えたと言います。それゆえにグルジアはかくも豊かで住みやすく、またグルジア人は旅人を暖かく迎えるようになったそうです。 コーカサス周辺の地図を見ていて、どうも聞き覚えのない地名が一つあると思ったら、Georgia とつづってグルジアと読みます。語源は、龍退治で有名な聖ゲオルギウスです。「グルジア」とロシア人は呼ぶようで、日本では、ソ連時代にでも伝わった読みをそのまま用いているのでしょう、とうぜん欧米諸国では、自国流に読みます。読み自体はペルシア語かアラビア語だとか。「ジャパン」が「日本」であるように、グルジアは、自国では「サカルトヴェロ(Sakartvelo)」と呼ばれます。カルトヴェリ(Kartveli。Kartvelian (adj.))人の土地、の意です。カルト(Kart)人による、ムツヘタを首都とするイベリア(Iberia, カルトゥリ, Kartli)王国とやらに起源を持つそうです。 紀元前六世紀ころに成立したコルキス王国(≒コーカサス?)にまでさかのぼれます。コルキスといえば、アルゴ探検隊の目的であった金毛羊皮を収蔵していた国ですね。アルゴ探検隊とは、黒海東岸の金属採掘を営む都市を略奪して回った海賊が後世に伝わったもの? 追記(Mon Aug 25 2003): ディスカバリーチャンネルの紀行番組で、コーカサスにおけるアルゴ探検隊のルートを追う回がありました。そこで、スヴァン人の伝統的採金法が紹介されていました。羊毛皮を敷き、その上に河川の土砂を流すと、比重の小さい土砂は流れ去り、比重の重い金が羊毛の間に落ちるそうです。ホントかよ、という気はしますが、まさにコルキスの金羊毛皮ではあります # コーカサス(ロシア流に読めば、カフカス。Caucasus・高架索)。グルジア正教(両性論)、アルメニア使徒教会(単性論)。
コーカサス山脈といえば、ギリシア神話で、火を与えることで人類を強大にしてしまった罪で、プロメテウスがつながれた場所です。金属製の武器や道具の持つ強大な力――金属を溶かすための、極めて高温の炎――かつてこの地に住んだ金属採集を営む人々と、何らかの関係があるかしら?
# http://www.rzuser.uni-heidelberg.de/~ci4/georgien/georgien/georgienlage.htm 関連リンク:
パシュトゥン人(Thu Jun 12 2003)パシュトン人(あるいはパシュトゥン人、Pashtun)。タリバン。部族地域(tribal area) 追記(Sun Oct 31 2004): 「アフガン」は、「パシュトン」の、ペルシア語による他称、とするサイト。ということは、アフガニスタン = パシュトニスタンということになってしまう。少数派は気の毒だ
追記(Tue Apr 20 2004): 現地で「アフガン人」と言えば、たいがいはペルシア系のパシュトゥン人(スンニ派)を指し、中央部を占める、モンゴル系のハザラ人(シーア派)、北部のタジク人、ウズベク人、トルクメン人(これらはスンニ派)などを指さない。ところで、「トルキスタン」と言うわりに、タジク人だけは印欧語属に属するの?
追記(Tue Apr 20 2004): かつてのパシュトゥン人の王国を、大英帝国(当時のインド、現在パキスタン側)と、南下政策をとったロシア(アフガニスタン側)が分断したの パキスタンの人口の 16% を占めるにすぎないのに対し、パキスタン軍兵士の 25% を占めます。勇猛で知られるそうです。 追記(Tue Apr 20 2004): ちなみに、アフガニスタンでは全人口の 40% を占める、最大民族。ただし、内部で仲が悪い パキスタンの公用語はウルドゥー語ですが、北部を中心に多くの言語が入りまじり、またウルドゥー語といえ、高等教育に耐える言語でないため、かつての英国支配以来、英語が公用語であり、高等教育のための言語として用いられる。 関連リンク:
まだソ連型やってるトルクメニスタン(Wed Jun 11 2003)かつてシルクロードの中継点として栄えたトルクメニスタンだが、シルクロードの衰退とソ連の支配を経て、かなりいびつな国、という印象を受けます。 カラクム(Garagum, gara = black, gum = sand)砂漠の大部分を占め、中央アジアで最も水が不足する国として知られるトルクメニスタン(Turkmenistan)。悪いが、はっきり言って貧しそうである。トルクメン人(Turkmen, トルコ語で「トルコ人に似た人」の意)の民族国家という意味では、幸せな部類に入るが。 追記(Mon Apr 19 2004): 中央アジア一帯は、トゥルク人たちの故地。トルクメン人もトゥルクなんだろう 旧連邦時代には、需要と供給は連邦連体で考えられていたので、旧連邦共和国各国の産業はかなり偏っている。で、旧トルクメン・ソビエト社会主義共和国(トルクメニスカヤ?)の分担は、天然ガスと棉花。
追記(Mon Apr 19 2004): 正確には「イスタン(-istan)」な国々、かな。「〜の住む場所」を意味し、もとはトルコ語です。中央アジア一帯から発し、後に大帝国を建てたトゥルク人(言語的にはトルコ語、宗教としては後にイスラム化)の影響下にあった一帯に「〜イスタン」の国号がついている。そういう意味で、ソ連は「中央アジアの「〜イスタン」がソ連なら、アフガニスタンや東トルキスタン(歴史的中国の西域、今でいう新疆ウィグル自治区)もソ連じゃ」と言うだろうし、パキスタンは「イスラム教国なウチはインドじゃないぞ」と言うわね。
アムダリア河が自然国境として、パキスタン - アフガニスタン - トルクメニスタンと、ウズベキスタンを分ける。
追記(Tue Apr 20 2004): とはいえ当然、トルクメニスタンのイスラムはスンニ派。シーア派のイラン国内ではいろいろ難しかろう。
首都は、アシガバート(あるいはアシュハバート。Ashgabat)。
空路では、モスクワ経由。
大統領のニヤゾフ(Niyazov)氏(62)が、2002 年 8 月に国民議会の全会一致で終生大統領に任ぜられています(記事)。国のいたるところに肖像画や銅像があふれているという、実に古典的な独裁者です。ただし、型としては某将軍様のところよりも、フセインのイラクでしょう、何しろ、資源があります。ただ、8 割がトルクメン人なので、民族意識をあおっていれば、内戦のおそれはないらしい。
氏は大統領であり、首相を兼任し、軍の最高司令官でもある。「トルクメンバシ(トルクメニスタンの長・父)」の尊称を持つ。ソ連崩壊後(いや、ペレストロイカ以降)、ほとんどの連邦の国々が何らかの民主化を進めた中で、旧ソ連型の独裁を維持し続けた。もっとも、どうも最近は高官の亡命があいついでいるらしく、米国が、対アフガニスタンで基地を要求したりして(パキスタンも困ってたな)、基盤がゆらいでいるらしい。 貧しく、資源があり、民族意識というニカワがあるからでしょう。 # http://www.aurora-net.or.jp/doshin/silkroad/kikou/no23/index.html 関連リンク:
史上初の帝国、アッシリア(Tue Jun 10 2003)メソポタミアの、バビロニアよりも上流の地方をアッシリアと呼びます。気候は南方にくらべて寒冷で、農業は灌漑によるものではなく、冬季の降水に依存。羊や山羊などの牧畜に対する依存度が高く、しぜん、南方とは異なった生活様式を持っていました。 追記(Mon Apr 19 2004): などと教科書的に特徴を並べてみても何も見えてきません(一年もたてばすっかり忘れて、ヒッタイトと混同する始末)。世界初の帝国、アッシリア帝国なんですよ? 帝国たるには、既存の、民族なり宗教なり自然境界なりをわざわざ乗り越えて行くための、何らかの膨張力が無ければならんわけで、それは決してありふれた、路傍にころがっているようなものではないと思うんですよ。
対エジプトで疲弊したヒッタイトが、経済的理由から、それまでの方針を曲げて鉄器の輸出に踏み切ったとも聞きます。ヒッタイトの滅亡後、鉄にたずさわる技術者は各国で厚遇され、前 1 大世紀に入るころには、アッシリア、エジプトをはじめ、オリエントのほとんどの国に鉄器は存在したようです。 アッシリア躍進の本質は、とびぬけた軍事力のみに帰せられるのか?
ミタンニに服属した時期をはさんで大きく二つに分けられるのですが、アッシュール人による民族国家なので、一緒に考えていいんでしょう。明示的に分ける場合、前者を古アッシリア、後者を中アッシリアと呼び、前 1 大世紀に入ってからの大膨張期のそれを新アッシリア帝国と呼ぶ。
ところで、現在の「シリア」の語源は「アッシリア」のようです(日本語訳)。 UNPO なる団体があるそうです。"Unrepresented Nations and Peoples Organization(代表を出していない国家・民族の組織)" だそうです。で、そんな国々(?)の中に、あるんだな、
ことさらに民族意識を鼓舞する裏には、現在にも至る諸問題があるようです。キリスト教徒への改宗が容易であったこと、イラクその他でクルド人やアラブ人に迫害されたことから、アメリカのシカゴ周辺への移民が多いそうです。そのため、中東に残った者も、比較的教育水準が高く、英語が堪能だったりする。見ためは、他のアラブ人とそんなに変わらないらしい(ただし、日本人の目で)。 追記(Sat Jun 26 2004): 「迫害」と書きましたが、WWI でこの(自称)アッシリア人はイギリス側についてオスマントルコと戦ったことから、戦後、「報復」として虐殺され、多くが亡命し、東方アッシリア教会の総主教座(ネストリウス派!?)は米国へ移転されたのでした。実績としては、イスラム教の方が、三大キリスト教よりも、他宗教に寛容なのだ(もちろん、19C 以降の民族主義の高まりと無縁ではないから一概には言えないけど)。 思った以上に、アッシリアは根が深い。http://www.belltown.co.jp/town/culture/heiwa/iraq/iraq_1.html シュメール人の都市国家群≠統一国家 (Tue Jun 10 2003)
http://www.nttei.com/british-museum/mesopotamia/menu.html http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-1/bc2112a.htm http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-1/mesopota.htm シュメール(Sumer, Sumeria)。シュメール人(Sumerian)。ウル、ウルク、ラガシュ。ギルガメッシュ。大成建設、NHK、ウル。
http://ventvert.hp.infoseek.co.jp/study/kodai_iseki/kodai_iseki1.htm
http://www.taisei.co.jp/whatsnew/html/bunmei4.html http://www.nhk.or.jp/bunmei/eurasia/bunmei.html 大成建設の Virtual Trip ← インパクだよ、あっはは。 同、メソポタミア文明。 アケメネス朝ペルシア(Tue Jun 10 2003)
――まあいいとして。 印欧三国滅亡後混乱の中にあった 1M BC を統一したのが、キュロス率いるアケメネス(Achaemenes, Achaemenid (adj?))朝のペルシア。 追記(Mon Apr 19 2004): そんなペルシアも、アーリアン中のアーリアンですけどね、要はイランなのですが。
影薄し、ミタンニ、カッシート(Tue Jun 10 2003)ミタンニ(Mitanni, Mittani, Mittania, Adj: Mittanian)、カッシート(Kassites)、前第二千年紀、インド・ヨーロッパ語族(印欧語族。Hurrian とも)、イギリス、北メソポタミア、シリア(Syria)、アマルナ時代。
もっとも、ヒッタイトはミタンニに戦車を学んだわけで、人種的にも交流は進んでいたらしく、単純に「ヒッタイトがミタンニを征服」というのとも違うようです。 ウェブ上でも、ミタンニに関する記述・図像は少ないです、なぜだろう? アッシリアの継承者(征服者か?)でしかないからでしょうか?
カッシートの版図が見あたらないのですが、まあいいか、古バビロニアと大差ないでしょう。
ウェブ上をさがしても、カッシートについての記述はさみしいです。「古バビロニアを滅ぼした民族・国家」、あるいは「ヒッタイト、ミタンニとならぶ印欧語族国家」といった相対的な記述ばかりです。もっともそういった評価は、カッシートは、それまでの支配者であるアムル人からすれば異民族ではあったが、その軍備の強力であることを除けば、古バビロニアの文化や制度・神話を忠実に受け継いだために下されたものでもあるようです。 そんなですから「カッシート朝バビロニア」とか呼ばれています。言います? バビロンは首都じゃないらしいんですけどね、カッシート人の治世の間。 というわけで、カッシートを知りたければ古バビロニアを訪ねてみなさい。 分かったこと: ミタンニもカッシートも、「Hurrian による、近東・中東国家の樹立」という意義は大きいものの、その国家自体は、それぞれアッシリアとバビロニアの継承・維持でしかないので、何分にもキャラが立っていないのである。そこ行くと、アナトリアに独自の帝国をブチ立てて鉄器を振り回しながらラムセス二世のエジプトとガンガンやりあったヒッタイトは別格なんですな、資料も多いしマンガ(「天は赤い河のほとり」、"Anatolia Story" のタイトルで海外にも出ている)にもなっている。 バビロニア第一王朝(Tue Jun 10 2003)ちょっと時代はさかのぼりますが、シュメール人の都市国家群の文明を引き継ぐかたちで統一国家を樹立したアッカド人の土地を受け継いで、インド・ヨーロッパ語族三国の登場まで、中東の中心であったのが、バビロニア(Babylonia)第一王朝(古バビロニア王国)。
前第二千年紀前半、古バビロニア王国、前第二千年紀、南メソポタミア地域、シュメール、カッシート(Kassites)、ネブカドネザル二世から始まる第二王朝、ハンムラビ。
より早い時期から都市国家を形成しながら、エジプトに比べて統一国家の樹立が遅れたのは、エジプトという無垢な土地に、文明なり統治機構という「発明」がメソポタミアから、金属採集・精錬にたずさわる人々によって輸入されたからだという説は、とても興味深い。そうなると、インダス文明や黄河文明もまた、本当に当地で発生したものであるかどうかを疑ってみる必要がありそう。
「目には目を」の条文は、現代ではたいがい「きびしい報復」の意味で引用されますが、逆に言えば「目以上はダメよ」なわけであり、際限のない報復合戦を防ぐ意味があったはず。 採金属民族の末裔? ヒッタイト(Mon Jun 09 2003)紀元前第二千年紀の地中海東岸を手さぐりしています。
トルコよりも、アナトリア(Anatolia)と呼ぶほうが、古代史っぽくて気分が出ます。小アジアです。その後ヘレニズム文化が覆いかぶさってしまった文明・文化って、あまりなじみがないので、どうもピンと来ないんですよね、古代ペルシアとかヒッタイトとか。
なお、「ヒッタイト」という国名は、勝手に聖書をもとにした造語であり、自称としては「ハットゥシャ」(あるいはハットゥサ。国名であると同時に、首都の名)であったと思われるとか。
ヒッタイトは、初めて鉄器を用いた国家である。全盛期のエジプト、かのラムセス二世(在位 1279〜1213 BC)と戦って互角であった。 追記(Sat Jun 26 2004): ヒッタイト「帝国」などという記述もありますが、アナトリアの領有だけでは「帝国」は名乗れますまい。アッシリアを待つべし
追記(Mon Apr 19 2004): 馬を用いた「軍事」技術の発展の順で言うと、馬車のほうが、騎乗より先。裸馬に騎乗して戦闘すると、槍で突けば後方へ滑る、剣を振りおろせば横へ落ちるで、はなはだ具合が悪い 青銅器時代、古代、中世、ルネッサンスの軍勢のファギュアを集めたページで、青銅器時代からは、エジプト、ヒッタイト、アッシリアが登場。洋の東西問わず、フィギュアは愛ですねえ。
……だのに突然、謎の「海の民」に滅ぼされてしまいます。その後しばらくアナトリアには大きな権力は存在せず、再び歴史の表舞台に登場するには、その後フリージアの登場までの数百年を待たなければなりません。 # ttp://academy.2ch.net/whis/kako/1012/10120/1012091896.html エジプト(Mon Jun 09 2003)ヌビアははるか南方、ナイル河の上流で、スーダンとの国境付近。「金の土地」の意という。
イベリア半島(Mon Jun 09 2003)
エブロ川――イベリア半島の「イベリア」は、この沿岸に住む人々の意らしい。
ゲーム「アドヴァンスド大戦略ツヴァイ」に「エブロ河を血に染めて」なるシナリオがありますね。しかし「ツヴァイ」って……やっぱりみんな、ドイツ軍大好きなのよね。
追記(Sat Aug 02 2003): パッと見たときに気づくべきだったのでしょうが、この絵画、モノクロです(微妙に色を入れているようなのですが、こんな画像ではわかりませんね)。以下、研究者の話からですが、当時パリにいたピカソは、ゲルニカの悲劇を、新聞などのジャーナリズムを通して知ります。着想の元も、新聞上のモノクロの写真だったようです。モノクロのほうが臨場感を持つ、という奇妙さありますね
もっともバスク人はフランス南西部にもいるわけで、スペイン内乱でフランスが反フランコ側についたのには、バスク弾圧を掲げたフランコに対する国内世論(国内のバスク人世論)も関係したんでしょう。
根強い抵抗があったことは確かですが、戦略的に何があったわけではないようです(バスク地方が鉱物資源の宝庫という話もある)。ヴェルサイユ条約以降、空軍を持つことを禁じられていたドイツでしたが、そこを秘密裏に再軍備をすすめていたヒトラー。手にしたオモチャを使ってみたかったのか、フランコの要請に応えて大群を送ってきました。
あるサイトで、先のイラクに対する米英軍の攻撃を非難した人々を、フランコのスペインに対して中立の姿勢をとって見殺しにした先進諸国になぞらえて非難していた人がいましたが……イヤですねえ、そういう跳躍論理。イラクの独裁政権の所業が目にあまるからと言って、なぜ、即爆撃 OK になるのかね? # むしろ、バスクの資源欲しさに大爆撃を加えたドイツ軍が、石油利権のために空爆を行なった米軍にダブって見えたことはヒミツです イェリコ(Mon Jun 09 2003)
ジェリコ(Jericho)とも。BC8000 ころ〜 BC7000 ころ、史上初の城壁(「第一次の」ジェリコの壁。高さ 4 メートル、幅 2 メートル)を持つ町が存在した、推定人口 2,000 人。金の起源を読みつつ。 ところで、千年単位を「大世紀」と呼ぶんですね。「BC 大五世紀」とか。 マケドニアの膨張(Mon Jun 09 2003)
ダーダネルス海峡をこえるにあたっては、慎重に後顧の憂をはらってよりであったのも分かります。日本人の感覚ではピンとこないんでしょう、周り中、地つづきで他国、というのは。ちなみに、「ダーダネルス」は、イギリスの提督の名前で、ここで海戦。という説がある一方で、ゼウスの息子で、トロイアの創設者と伝えられるダルダノスに由来。うん、こっち採用。
ちなみに「マルマラ(Marmara)」はトルコ語の「大理石(marmor)」に由来し、たぶん英語の marble と同根。「ボスポラス」はギリシア語で「牛の渡し」で、例によってヘラに追われ牛となったイオが、ギリシアから逃がれる際に渡ったため。それにしても、太古、ギリシアから追われた人々は、何かとこのへんに落ちるようで。ヘレーも、人語を解し空を飛ぶ金羊の背から、ヘレスポントス(ダーダネルス)海峡に落ちてるし。 む〜。 アレクサンダー大王とダレイオス三世について調べていて、関岡正弘氏(東京国際大学教授)のサイトに行きあたりました。彼の「黄金史観」とでもいうべき、黄金の貯蓄高や相続権をめぐる巨大な歴史のうねりには非常に説得力があります。少なくとも、アレクサンダーの侵攻の動機を個人のロマンに、版図の限界を個人の能力不足に帰するような論よりも、はるかに。 納戸
追記(Mon Apr 19 2004): 内陸の河川なので、灌漑によって湖への流入量が減れば湖は干上がる。アラル海の水位は下がりつづけている。また、下流域では農地に塩分が析出する 総合リンク
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